名古屋地方裁判所 昭和61年(ワ)1249号 判決 1991年9月27日
原告
甲山花子
右法定代理人親権者
甲山春子
原告
甲山春子
右両名訴訟代理人弁護士
藤井繁
被告
宇佐美ちへ子
右訴訟代理人弁護士
河内尚明
右訴訟復代理人弁護士
西川正志
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一請求
一被告は、原告甲山花子に対し、一億一九八三万九六九四円及びこれに対する昭和六一年五月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二被告は、原告甲山春子に対し、一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六一年五月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告甲山春子(原告春子)が、助産婦の被告の助産によって原告甲山花子(原告花子)を出産したものの、原告花子がその数日後に核黄疸にり患し、脳性小児麻痺の事態を招いたことにつき、被告との間で締結の新生児の保健指導等を委託する旨の契約の債務不履行であるとし、原告らが被告に損害賠償を請求した事案である。
一争いのない事実
1 原告春子は、昭和五一年六月八日、助産婦の被告との間で、分娩の介助及び生まれてくる子供(原告花子)の保健指導を委託する旨の契約を締結した。
さらに、原告春子と訴外橋本太郎は、原告花子の法定代理人として、同年八月二九日、被告との間で、新生児としての原告花子の正常な発育等に関する保健指導を委託する旨の契約を締結した(明らかに争わない。)。
2 原告春子は、同年八月二九日午後六時三〇分、被告が肩書住所地に開設する諏訪助産所において、被告の介助の下に原告花子を出生した。
原告花子は、在胎期間が妊娠三五週、九か月出産、出生時体重が二二二〇グラムの未熟児であった。
原告春子及び同花子は、同月三一日に諏訪助産所を退院し、翌九月一日、同所において、被告によりオイルバス、臍の処置などを受けた。
3 原告春子は、同年九月二日朝、原告花子の容態の異変に気付き、午前一一時五〇分ごろ、市立四日市病院未熟児センター(四日市病院)に入院させた。原告花子は、同日、同病院において、核黄疸と診断され、交換輸血等の治療を受けたが、核黄疸の後遺症により脳性小児麻痺となった。
二争点
1 原告花子の核黄疸(本件核黄疸)は被告の責に帰すべき債務不履行かどうか。
(一) 原告らの主張
(1) 原告花子は前記のように出生時の体重が二二二〇グラムの未熟児であった。未熟児は、核黄疸になりやすく、しかも、核黄疸の発生(プラーハの第一期症状の段階)が表面に現れにくい。したがって、被告は、助産婦として原告花子が生理的黄疸の程度でも常に核黄疸への進行を疑って対処(イクテロメーター(肉眼で皮膚の黄染状況を見る定規状の黄疸計測器具)で黄疸の程度を頻繁に計測するとか、医師に連絡して指示を仰ぐなどの措置)すべき注意義務がある。まして、被告が、昭和五一年八月三〇日午前七時四〇分ころ、イクテロメーターで原告花子の黄疸の程度を測定した結果、「21/2」という未熟児にとって病的黄疸ひいては核黄疸に至る危険性を包含した数値(ビリルビン値が最高で12.11mg/dlであって、未熟児における病的黄疸の管理基準一二mg/dlを超える値を含んでいる。)であったのであるから、被告は、核黄疸の発生・進行を疑い、以後、医師に連絡して指示を仰ぐとか、原告花子を診断してもらう医師を紹介する(そうすれば、医師は必ずビリルビン値を測定する。)とか、あるいは黄疸の状態を十分の注意をもって観察し、連日、随時イクテロメーターで測定し、医師の指示を仰ぐなどの処置を講ずべき注意義務があった。被告がこれらの措置を講じていれば、原告花子は、核黄疸に進行する前の段階(病的黄疸の段階)で適切な治療を受けることができ、核黄疸にはならなかったのに、これを怠ったため、核黄疸への進行を許してしまった。
(2) 本件核黄疸は、昭和五一年八月三一日早朝から翌九月一日早朝までの間に発生したから、この時点で、核黄疸の発生を発見して光線療法や交換輸血の措置を講じていれば、核黄疸の進行をくいとめ脳性小児麻痺になることを防止することができたはずである。そして、前記(2)のように八月三〇日以降頻繁にイクテロメーターで測定し、医師の指示を仰ぐとかの措置を講じていれば、原告花子の皮膚の黄染の度合いがイクテロメーターで「3」の値を超えていることを発見できたであろうし、あるいは医師によってビリルビン値が測定されて核黄疸に進行していることも発見することができたはずである。ところが、被告がこれを怠った(特に、前記八月三一日ないし翌九月一日にイクテロメーターで測定していれば、その黄疸の程度は極めて異常で、核黄疸が進行していると気付いたはずであるのに、被告は一度も右測定をしていない。)ため、本件核黄疸の発生に気付かず、かつ、その進行を防止できず、結局、原告花子は脳性小児麻痺になった。
(二) 被告の主張
原告花子は、出生時の体重が二二二〇グラムであったものの、在胎期間が三七週を超えている可能性があった上、出生後の全身状態が良好であったことからも、その成熟度は成熟児に極めて近く、その未熟性を強調すべきではない。
本件黄疸は、イクテロメーターによる測定や哺乳力等の全身状態の観察によっても、昭和五一年八月三〇日から同年九月一日の午前中まで異常が認められなかったにもかかわらず、原告花子が諏訪助産所から帰宅の同年九月一日の午後ころから翌二日の早朝までの間に、急激かつ高度に増幅・悪化し、そのまま核黄疸に進行したという、極めて特異な症例である。したがって、被告が、本件核黄疸の発生を予見し、原告花子の脳性小児麻痺回避のための早期転医等の措置を講じることはできなかったから、被告に帰責事由はない。
2 損害額
原告ら主張の被告の債務不履行に基づく原告花子についての逸失利益二九八六万二〇九四円、付添看護料六四九七万七六〇〇円、慰藉料二五〇〇万円の以上合計一億一九八三万九六九四円、原告春子についての慰藉料一〇〇〇万円の損害額
第三争点に対する判断
一原告花子の出生と本件核黄疸発症の経緯
証拠(<書証番号略>、証人岡田暹、同櫻井實、原告隆子、被告)を総合すると、次の事実が認められる。
1 原告春子は、昭和五一年五月当時、夫太郎らと共に三重県四日市市日永五丁目一〇―六に居住していたが、そのころ第四子の懐妊に気付き、同年六月八日、諏訪助産所を訪れた。
そして、原告春子は、「幼児が二人(第一子は出生直後死亡。)いるので留守にすることができないため、自宅で出産したい。自宅まで出張してほしい。」と被告に申し出た。これに対し、被告は、原告春子から既往分娩を聴取し、その結果、過去三回の分娩とも早産であったことを知るに及んで、「助産所より設備の整った大きな病院でお産をされた方が、あんたも安心ではないか。」と勧めた。ところが、原告春子は、「病院は出張してもらえないし、また費用も相当かかる。」、「病院は好きではないから、助産婦のあなたを選んだ。どうしてもお願いしたい。」として被告の助産を懇請した。しかし、被告は、「少なくとも妊娠中は正常であっても、出産のときに突発的に異常をきたすことがある。そんな事態になったとき、自宅ではその処置に支障をきたし、大変だから施設出産の方がよい。」と勧めた。その結果、原告春子は、「お産は諏訪助産所でやってもらう。お産が終わったら一日でも早く退院させてもらいたい。」と要請し、被告は、「産後の経過を見て、母子共に異常がなかったら、その時点で考える。」として、助産を引き受けた。
2 原告春子は、同月二五日、検診のため諏訪助産所に赴き、「昨日から気分が悪いし、嘔吐があって、不快である。」旨訴えた。そこで、被告は、診察したが、胎児の心音をはっきり聴取できなかったので、吉川産婦人科医を紹介し、受診させた。その結果、原告春子に全く異常はなかった。
3 原告春子は、同年七月二六日、被告に電話で、「昨夜、水のようなおりものがあったので、破水したのではないか。」と相談し、被告の指示により、直ちに諏訪助産所に赴き診察を受けたが、おりものは羊水ではないことがわかり、そのまま帰宅した。
4 原告春子は、同年八月二九日正午ころ、諏訪助産所を訪れ、「二七日の夕方ころから水様性のおりものがあったが、間もなく止まったので、きょうまで様子を見ていたが」として検診を求めた。被告は、検診の結果、破水のように認められたので、直ちに入院を指示した。しかし、原告春子は、入院準備をしていないとし、いったん帰宅して出直すことにした。
原告春子は、同日午後四時五〇分ころ、「午後四時ころから陣痛が起きてきた。」と言って、諏訪助産所に入院した。そして、原告春子は、前記のように同日午後六時三〇分、原告花子を出産した。
原告花子は、前記のように出生時の体重は二二二〇グラム、新生児の健康状態を示すアブガースコアは出生直後の泣き方が少し弱く八点であったものの、その後すぐ元気に泣き出し、非常に元気であった。
5 被告は、翌三〇日午前七時四〇分ころ、イクテロメーターで原告花子の黄疸の程度を測定したところ「21/2」であった。右イクテロメーター値は、ビリルビン(後記二1参照)値に換算すると、最高値で12.11mg/dlであって病的黄疸の可能性を含む数値であるが、平均値は7.57mg/dlで生理的黄疸の程度にとどまる数値であって、病的黄疸とはいえない。原告春子は、同日午前一〇時ころ、母乳を直接授乳させたが、原告花子は成熟児と変わらないほどの強い哺乳力で元気に飲んだ。その哺乳力はその後も正常であった。当日における原告花子の体重は二二〇〇グラムであった。体重が前日に比べて二〇グラム減少しているのは生理的なものであって、異常ではない。
6 原告春子は、翌三一日朝、被告に退院を申し出た。被告は、これまでの経験で出産後三日目で退院の産婦はいなかったし、原告花子の臍帯の処置も済んでいなかったことから、「もう少しいてもらった方がよい。」と言って在院を勧めたが、原告春子の強い要望により、同日夕方退院した。
退院時の原告花子は、黄疸の程度は生理的黄疸のそれであり、哺乳力も強く、体重は二二五〇グラムに増えていた。
7 原告春子は、同年九月一日午前、原告花子を連れて諏訪助産所に赴き、被告からオイルバスと臍の清拭処置を受けた。その際、原告春子は、原告花子の様子について、「子供は小さい割りに、お乳もよく飲んでくれるので、ありがたい。」旨述べ、被告がイクテロメーターで測定してみたが、原告花子に異常は認められなかった。
8 ところが、原告花子は、同月二日の朝方、原告春子がおむつを取り替えようとした際、鼻の周囲を始め手足にも黄土色が出ていて、しゃっくりのような呼吸をしていた。そのため、原告春子は、同日午前八時すぎ、被告に電話をかけ、その指示により、同日午前一〇時ころ、原告花子を連れて諏訪助産所に赴いた。被告は、原告花子を診察した結果、黄疸がかなり出ていて、呼吸不全も起こしているようだったので、直ちに四日市病院に入院を手配した。そして、被告は、原告春子、同花子に同道し、原告花子は同日午前一一時五〇分ころ四日市病院に入院した。
原告花子は、前記のように四日市病院で核黄疸と診断され、交換輸血の治療等を受け、その結果、一命はとりとめたものの核黄疸の進行は、同病院に入院時点でプラーハの第二期症状に入っていて既に手遅れの状態にあり、前記のように脳性小児麻痺の後遺症が残った。
原告花子は、昭和五三年、右脳性小児麻痺にため、当時居住の三重県より身体障害者として一級の認定を受け、今日に至るまで自力行動ができない状態にある。
二新生児黄疸及び核黄疸の症状ないし発生機序
証拠<書証番号略>、証人岡田暹、同堀江重信、同櫻井實)によれば、次の事実が認められる。
1 黄疸
胎児が胎内にいるときは、非常に低酸素状態のため、血液中の赤血球が過剰になっている。しかし、出生して肺で呼吸を始めると、血中の酸素濃度も高くなり、それほど多量の赤血球は不要になるので、不要になった赤血球に含まれているヘモグロビンが脾臓で破壊されビリルビンに変わる。そして、このビリルビンが肝臓でグルクロン酸包合酵素によって包合され、胆汁のほうへ出て、便となって体外へ排出される。これが生理的なビリルビンの処理過程である。
ところが、日本人は、欧米人に比べてグルクロン酸包合酵素の発達が非常に低いため、ビリルビンの処理能力が比較的悪く、大体生後三日目になると約九〇パーセントの新生児に黄疸(生理的黄疸)が出る。そして、通常は、生後何日か経過すると、包合酵素の活性が高まってきてビリルビンの処理能力が上がるうえ、過剰の赤血球の分解が止まり、肝臓にいくビリルビンの量自体が減少して肝臓の負担が軽くなり、肝臓の働きがよくなることから、ビリルビンは生後約一週間後に減少していき、黄疸も消失する。
一般的にいって、血液中のトータルビリルビン値が12mg/dl以上のときは、病的黄疸とされている。
2 核黄疸
(一) 血液中にあるビリルビンには、蛋白質と結合しているものと、遊離しているものとの二種類がある。後者のビリルビンが皮下脂肪組織などに沈着しきれないほど多量になると、脳血液関門を通り抜けて脳の神経核、主に基底核に沈着し、脳の酸素代謝等の代謝機能を阻害して脳障害を引き起こす。これが核黄疸であるが、未熟児はこれになりやすい。
一般的にいって、血液中のトータルビリルビン値が成熟児の場合二五mg/dl、未熟児の場合二〇mg/dlを超えると核黄疸の危険がある。
核黄疸の発生原因としては、一般に、新生児溶血性疾患と、特発性高ビリルビン血症又は新生児ビリルビン血症(非溶血性)といわれるものがある。前者はいわゆる血液型不適合によるものであり、後者は血液型不適合とは無関係に高ビリルビン血症を呈するものであるが、両者とも血液中の間接型(非抱合型)ビリルビンが増強し核黄疸となるものであって、この点については差異はない。また、黄疸には、蓄積型と閉塞型とがあるが、核黄疸を引き起こすのは蓄積型に限られる。
(二) 核黄疸の臨床症状は、一般に、医学者プラーハの著作にある次のような経過をとる。
(1) 第一期(発症後おおむね一両日)
筋トーヌス(筋肉の緊張)の低下、哺乳力の減退等の症状が見られる。核黄疸は、一般にその症状が完成すると、たとえ治療により救命できても、後に重篤な後遺症を残すことが多い。しかし、第一期のうちに適切な治療がされるならば、神経症状の改善も期待できる。その意味では第一期は臨床的に最も重要な時期といえる。
(2) 第二期(第一期後一〜二週間)
核黄疸に特有な後弓反張(全身が後方弓形にそり返ること。)、四肢強直、落陽現象(眼の瞳が落陽のように下方に沈んでいく症状)が出現する。死亡はこの時期に起こることが多い。
(3) 第三期(第二期後一〜二か月)
後弓反張、四肢強直などの第二期にみられた症状は次第に減弱ないし、消失し、ときには外見上まったく無症状にみえることもある。
(4) 第四期(生後二か月以降)
永続的な後遺症として、アテトーゼ、凝視麻痺などの錐体外路症状、エナメル異質形成、聴力障害などが次第に明らかになってくる。
(三) 未熟児では、以上のような典型的神経症状を呈することは少なく、チアノーゼ、呻吟、呼吸数減少などの呼吸障害の症状、あるいは出血傾向などが先行する。
三被告の帰責事由の有無
以上の事実によれば、原告花子が昭和五一年八月二九日諏訪助産所で被告の助産により出生し、退院後の同年九月一日午前に同助産所で被告からオイルバスと臍の清拭処置を受けるまでの間、格別異常がなかったのに、翌二日朝、容態の異常により、同日午前一一時五〇分ころ四日市病院に運ばれた時点では、既に核黄疸がプラーハの第二期症状に入っていたことが明らかであるから、本件核黄疸は、原告花子が同年九月一日諏訪助産所から帰宅の同日午後あたりから翌朝にかけ、生理学的黄疸が急激かつ高度に悪化し、病的黄疸が発生してそのまま核黄疸に進行し、すなわちこの間、自宅において既に発症していたものと推認される。
そうすると、本件黄疸ないし原告花子の脳性小児麻痺の発症につき、他に特段の事情が認められない本件においては、助産婦としての被告がこれを予見し、あるいは回避の処置をとることは不可能というべきであるから、これが被告の責に帰すべき事由に基づくものとはいえない。
1 原告らは、本件核黄疸は昭和五一年八月三一日早朝から翌九月一日早朝にかけて発生したと主張し、これを肯定する趣旨の<書証番号略>(小児科専門医師堀江重信作成の鑑定書)及び証人堀江重信の証言があるが、次の事由により採用できない。
(一) 右証拠によると、核黄疸のプラーハの第一期症状は一日ないし二日持続するとされているから、原告花子が四日市病院に運ばれた昭和五一年九月二日の昼ころ既にプラーハの第二期症状に入っていた以上、これから逆算すると、原告ら主張の間に本件核黄疸が発生していたと推論できるとされている。
しかし、核黄疸は、遊離ビリルビンが脳血液関門を通り抜けて脳の神経核(主に基底核)に沈着し、脳の酸素代謝等の代謝機能を阻害して脳障害を引き起こすものであることは前記二2(一)認定のとおりであるが、証人櫻井實の「未熟児には、プラーハの第一期症状を欠く場合があるといわれているが、なぜか。」との質問に答え、「未熟児というのは、……、もう一つは脳の未熟性が強い場合には核黄疸に急速になりやすいので、一期症状が比較的短い。」旨の供述にかんがみると、核黄疸への進行の態様については個体差があるものと推認できる。現に、原告花子の弟一郎(原告春子が昭和五五年一〇月二日諏訪助産所で出産の未熟児)の場合も、黄疸症状のため、生後三日目でまだプラーハの第一期症状がほとんどない状態で四日市病院に入院し、入院四時間後の血液中のビリルビン値が23.6mg/dl、さらにその三時間後が三〇mg/dlと急激に増強していることは<書証番号略>、証人岡田暹によって認められ、このことからも、プラーハの第一期症状が一日ないし二日持続するということには例外のあることが否めない。したがって、前記一般論を前提とする推論は採用できない。
(二) また、前同証拠によると、原告花子は、血液以外の臓器に溜まっているビリルビンが一郎よりもはるかに多量であったから、そこまで蓄積されるには一郎よりも長時間かかったことに間違いなく、一郎よりも早くから核黄疸が進行していたはずであると推論されている。
しかし、右推論の前提としての原告花子の血液以外の臓器に溜まっているビリルビンが一郎よりも多量であったとの点は、次のとおり断定できず、右推論もまた採用できない。
(1) まず、一郎の場合は、交換輸血後のビリルビン値がそのまま減少しているが、原告花子の場合は、交換輸血後の血清ビリルビン値が数日間にわたり交換輸血直後よりも高く、このようなリバウンド現象は、血液以外のところに蓄積されていたビリルビンの量が多く、それが交換輸血後に多量に出てきたことを示すものとされている。
ところが、他方、<書証番号略>(三重大学医学部小児科学教室教授櫻井實作成の意見書)及び証人櫻井實は、リバウンド現象は、交換輸血の八時間ないし一二時間後に生じる現象を指し、原告花子のように交換輸血後三日ないし五日後に出ているのはリバウンド現象とはいえず、交換輸血後もなお赤血球が崩壊して黄疸の進行が止まらず、ビリルビン値が上昇を続けていた事例と指摘している。
両者のうちどちらが真実に合致するかは、他にこれを断定できる証拠がないので明らかにできないけれども、少なくとも、直ちに前者の推論を肯認することはできない。
(2) また、原告花子の交換輸血前の血液中のビリルビン値33.0mg/dlから29.6mg/dlへの低下は、皮膚などのビリルビンが飽和状態になって血中ビリルビンが血液脳関門を突破し、脳に入った(核黄疸の進行)ことによるものであって、それほど多量にビリルビンが体内に蓄積していたとされ、もし、これが点滴によって低下したのであれば、一郎の場合も低下するはずであるのに、一郎は23.6mg/dlから三〇mg/dlに上昇しているとされている。
しかし、<書証番号略>中の看護記録によれば、一郎の場合、交換輸血前には点滴していないことが認められるから、一郎のビリルビン値が交換輸血前に上昇していることとの比較において、原告花子の場合を推測することはできない。加えて、<書証番号略>及び証人櫻井實によれば、原告花子のビリルビン値が交換輸血前に若干低下しているのは、交換輸血前の点滴によって糖分と水分が補給され、少なくともアシドーシス(酸血症)が改善されたことによることが認められ、これを併せ考えると、原告花子の交換輸血前のビリルビン値の低下をもって、多量にビリルビンが体内に蓄積していたと推論することはできない。
(三) 次に、前同証拠によると、原告花子の診療録(<書証番号略>の小児科退院時抄録)中の「生後四日目から黄疸増強し」の記載からも、原告花子は同日以前に核黄疸が発現していたことが推認されるとしている。
しかし、<書証番号略>及び証人堀江重信、同櫻井實によれば、右小児科退院時抄録は、通常、退院時に患者の方から直接聞き取ったことをまとめて記載しているものであることが認められる。しかも、これよりもオリジナルな記録といえるカルテないし看護記録中には、「四日目より黄疸」(<書証番号略>小児科新生児未熟児入院病誌)、「四日目より黄疸開始」(<書証番号略>看護記録一号紙)と記載されていることが認められる。そうすると、前記のような小児科退院時抄録の記載だけを根拠に核黄疸の発生時期を推論することはできない。
(四) さらに前同証拠によると、原告花子の弟一郎が生後三日目に核黄疸が発生したから、原告花子の核黄疸の発生時期も、生後三日目の八月三一日と推論できるとされている。
しかし、新生児の核黄疸の発生、進行の態様には、個体差があるから、右推論は採用できない。
(五) 原告ら主張の本件核黄疸発生時期における原告花子の全身状態は、哺乳力も強く、体重も増加していて、黄疸に異常もなかったことは前記一6、7認定のとおりであるのみならず、未熟児の核黄疸の場合に先行的に現れるとされるチアノーゼ、呼吸数減少などの呼吸障害の症状、あるいは出血傾向などの症状が現れていたことを認める証拠もない。
よって、原告らの前記主張は採用できない。
2 次に、原告らは、原告花子が未熟児であったから核黄疸になりやすく、しかも、昭和五一年八月三〇日午前七時四〇分ころイクテロメーターの測定値が21/2であったから、当時、既に病的黄疸ひいては核黄疸に至る危険性があったと主張する。
確かに、未熟児が核黄疸になりやすく、原告花子は、出生時の体重が二二二〇グラムの九か月児で、原告ら主張のとおりのイクテロメーター値で、これをビリルビン値に換算の最高値が病的黄疸の可能性を含む数値であることは前記一4、5及び二2(1)認定のとおりである。
しかし、右イクテロメーター値のビリルビン値に換算の平均値は生理的黄疸の程度にとどまる数値で、その後のイクテロメーター値に異常がなかったことも、前記一5、7認定のとおりであるのみならず、前記三1(五)のように未熟児の核黄疸における先行的症状が現れたことを認める証拠もないから、原告らの前記主張もまた採用できない。
四結論
以上のとおりであるから、本件核黄疸の発症が被告の責に帰すべき事由に基づくものとはいえず、本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
(裁判長裁判官角田清 裁判官藤井敏明 裁判官藤田昌宏)